「6歳までは生きられない」と言われていたからこそ見つかった、自分の人生を活かす仕事 吉川達也
「長くは生きられないと言われてたみたいです」
”極型ファロー四徴症”。吉川さんが抱える先天性の心臓疾患です。超がつく難病で、両親は病院の先生から小学校までは生きられないと宣告されていました。生まれてから病院を転々とし、4歳で大阪の国立病院へ入院。その後も手術と入退院を繰り返す日々。「病院の先生が父親代わり、婦長さんが母親代わりでしたね」自由に外にも出れずに、同じ病棟の友達が日に日に亡くなっていく毎日。幼少期から「死」が身近にありました。
学校に通えるようになったのは小学校2年生の時でした。しかし、1年遅れということもあり勉強にはついていけず、薬の副作用で授業中に何度もトイレに行かざるを得ません。気付けばいじめの対象に…。「なんで僕だけ病気もして、薬飲んで、いじめられなあかんのやろうと思ってました。自分がひん曲がっていくんですよ。生きている意味が分からんかった」高学年になると、授業をサボって地元の不良グループと一緒にいることが多くなっていきます。学校行かずに釣りに行ったり、悪さをしたりとダラダラと過ごす日々。両親とも衝突し、素行の悪さはエスカレートしていきました。「あれは黒歴史やな…」
やんちゃのまま高校3年生を迎えたある日、吉川さんは大阪でお世話になっていた病院の先生からこんな話を聞くことになります。「心臓病を持っている人は癌になりやすい」あくまで可能性の話だったのですが、吉川さんの心に重くのしかかる言葉でした。「生きていても無駄や」思いつめた吉川さんは引きこもりがちになり、ある日自宅のビルから飛び降りました。幸いにも命に別状はありませんでしたが、心には小さな変化が起こります。「親父には本気で殴られましたし、両親が真剣に泣いていることに気づいたんですよ。その時ようやく、もっとちゃんと生きないかんなと思えたんです」薄暗く覆っていた黒歴史の影が少しずつ散り、間から陽の光が射し込んでいきました。
短大を卒業し就職活動するも、心臓に病気を持っているというだけで難航しました。「心臓病を持っている人が働けるわけない」面接で心無い言葉を浴びせられることも少なくありません。ようやく就けた仕事も体調不良により離職してしまうこともありました。来る日も来る日も仕事を探す日々に疲れていたある日、ご縁があった地元の老舗和菓子屋にお声がけいただきなんとか就職。しかし、当時は障害者雇用が今ほど浸透していないことに加え、病気への正確な理解もありません。気が付けば吉川さんに与えられたのは倉庫内での軽作業でした。「陰口を言われることもありましたけど、なんとか見返してやりたいと思って必死で働きました。上司や同僚にも恵まれ、少しずつ色んな仕事を任せてもらえるようになったんです」それと同時に、会社自体の障がい者雇用に対する理解も徐々に深まっていきました。「周囲の理解と本人の努力が揃えば、障がい者でも一人前に働くことができる」そう確信した吉川さんは自分自身にある想いが湧き上がっていることに気が付きます。“障がいを持つ人たちが当たり前に働ける社会を創る仕事がしたい”「それが自分のやるべきことだと思えたんです」使命に気付いた吉川さんは、13年勤めた会社を辞めサニーサイドの門を叩きました。
「今までは誰かが作ってくれた障がい者雇用というレールの上で働かせてもらってたんですが、今度は自分がそれを作ってみたいと思うようになったんです」総務部として2年目を迎えた吉川さん。現在は採用や品質管理、広報などを担当しながら、農業やプログラミングなど、新規事業立ち上げにも精力的に取り組んでいます。「病気のこともあって、この先どれくらい働けるか正直分かりません。でも、誰もが当たり前に働ける世の中を目指して色々挑戦したいと思っているんです」自分の人生の時間をどう使うのか。幼い頃から自分の命に向き合ってきた吉川さんは、人一倍人生の時間を何に費やすのかを考えてきました。だからこそ、やると決めたことは一生懸命やる。「かっこつける訳ではないけど、自分の人生を活かす仕事ってこれしかないと思っているんです」だからこそ、その姿がたくさんの人の希望になるのだと思います。
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