僕もそう思っている
最近読んだ、土屋賢二さんの本「不要家族」の一節
知識と教養のちがい
何事についても「これが絶対」ということはなく、いま自分がもっている「価値観」が、多くのひとつにすぎないと思えるようになった。
そして、どんな状況になっても「これは大したことではない」と、どこかで考えるようになった。
どんなに苦しい状況に置かれても「大したことではない」という見方を、いつでも取ることが出来るという資質は、貴重ではないだろうか。
この資質は、苦難を笑い飛ばすユーモア精神と通じるところがある。
そしてさらに、「教養」にも通じていると、わたしは思う。
わたしの独断では、教養は知識ではない。
シェイクスピアやプラトンの全作品を暗記するなど、どんなに知識を増やしても、クイズ番組で自慢できるだけだ。
むしろ教養は、ものの見方にかかわる。
ものの見方がどれだけ幅広いか、どれだけ自由か、どれだけ多様な状況に対応できるか、どれだけ自分を相対化できるか、それを決めるのが「教養」ではないかと思うのだ。
教養の主な中身は歴史、文学、哲学などの人文系の学問だとされている。
歴史を学べば、自分が置かれている状況が、人間が経験してきた状況の中の一つにすぎないこと、自分にしがみついている価値観が特殊なものにすぎないことを知ることになる。
文学を学んで、人間が置かれる状況や行動や価値観の可能性を知れば、今の状況や自分の価値観が特別ではないことが分かる。
哲学を学べば、自分の愚かさを思い知らされる。
当然、自分の学習や研究についても「大したことではない」と考えることができるようになるはずだ。
どんなに苦労して得た知識でも平気で忘れることができなくてはいけないのだ。
これが「教養」の正体ではなかろうか。
欧米で教養が尊重されるのは、ものの見方が幅広く柔軟で、どんな状況にも対応できる人間を尊重するからだと思う。
私はこれを大学で、口を酸っぱくして教えたが、学生は、わたしが「大したことのない」人間だと思われただけだった。
ここに大学教育の難しさがある。
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君の名はつながりで
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